2011年08月10日

ちょっとご無沙汰してたけど、「セシウムさん」と「大文字」!!これは書かずにはおれんな!

だいぶ、ご無沙汰してしもたわぁ。まあ、ちょっとこの夏は、集中せなあかんことがあったりして(ようやく、それはついこないだ一段落してんけど)、ブログで考えを表現するっちゅーことへのエネルギーがそがれてたんは事実やなあ。すんません!・・・ま、でもその間、なんも考えてなかったわけではなくて、東北の被災地へボランティアに行ってきたり、いろんな脱原発系のイベントとかにも参加しててんけどね。実は、色々考えさせられ続けてる毎日でした。

そやけど、実際問題、2カ月ぐらい前とは比べもんにならんほど、全国的に「脱原発」への意識が高まってきてて、正直、感動してるとこもある。ていうより、今までなら絶対に明るみに出ることもなかったような、組織の中や人々の心の中に巣食い続けた「澱のようなズルさやゴマカシやナメた気持ち」が次から次へとバレにバレて、さすがにみんな目が覚めはじめた、というのが実情なんちゃうやろか。その「汚さ」を非難したくなる衝動と同時に、確実に自分の中に巣食っていた同質の「汚さ」がお陰さまであぶり出されて、人知れず悔いるような気持ち。そういうのが「脱原発」へもつながっていってるんちゃうのかなぁ、と思う。

たとえば、某テレビ局の「セシウムさん」のテロップ問題とかさ、ああ…このフザケたノリを悪びれもせずやっちゃえる感覚って、音楽業界の中でも当たり前にあったなぁと、正直、真っ先に思った。思いだした。

平たくいえば、「一番世の中で触れてはヤバいネタ」というのを、いつも敏感に感じ取って茶化す、という文化。もっと簡単にいえば、「深刻なもの」を「冷やかして笑う」という徹底したセンス。もっとも、そこに「愛」があれば、たちまちその精神は人を生かす「ユーモア」になりえるんやろけど、それはあくまで「当事者」から生み出されるユーモアやんか。実情はそんなええもんではなくて、単に、すべてのものが「他人事」に感じられるからこそ垂れ流せる「虚しいセンス」やねんな。そういう「虚しいセンス」を披露することによって、その集団への帰属意識を高めようとする、これまた虚しい営みなんやけど・・・まあ、私もようそういう「場」で笑ってましたわ。ホンマに。。。

そんで、さすがに3・11以降って、そういう「他人事感覚」が日本中から払拭されて、「当事者意識」が勃発しまくってるときに、久々に能天気な「他人事感覚」を突きつけられたために起こった自我の罪悪感みたいなもんが、「セシウムさん」事件への世の中の反応の理由のひとつやったような気がする。私も、胸の奥がキュって痛かったもん、あれ最初に見たとき。その痛みは確実に「ひどい言葉に胸を痛めた」というものとは少し違って、「あ、このノリ・・・私もこれに関係してた!!」という、苦しいデジャブみたいなもんやった。

そしてそして、さらに・・・これは「京都人」として、あれこれ感じずにはおられん事件やったし書くわな。

京都の「五山送り火薪騒動」。

この事件で、まず何よりも押さえとかなあかんわ!!と思ったことは、間違っても、京都人がブツクサゆうてきた「文句」と、「『脱原発』の意思表明」とを同一視するようなことがあったらあかん、ということ。「放射能が怖い」という感覚は、当たり前の感覚やし、「放射能ってやっぱり怖いってことがわかったから、原発はイヤや!」という感覚は、真っ当やと思う。そやけど、よう考えてみてほしい。たとえば、「琵琶湖に放射能の灰が降ってきたらどないしてくれはんの!?水飲まれへんようになるやないの!」と、文句つけてきた京都人が、果たして、もんじゅの廃止や美浜原発の即時停止を真剣に訴えていたやろか、と。

・・・推測でものいうのんもアレやけど、たぶん、「脱原発」という意識をしっかりもった人なんて、その中にはほとんどおらんかったんちゃうやろかと思う。ようは、ただただ「心配」に支配されてただけの人達、やったんちゃうやろか。まあ、政府の言うことも東電や九電のいうこともウソばっかり、という状況の中では、何がなんでも「心配」でしょうがない、という人々の気持ちも責められへんというのは、確かにあるよ。

ただ、今回のことは、私も京都人として自戒を込めて言う権利があるかなぁ、と思うからあえて言うけど、「ああ、京都が言いそうなことや」ていうのと、そういうクレームちょっとつけられただけで、取りやめにしてしもたり、それに対してまたクレームがきて、またクルっとひっくりかえしたりするとことかも、「ああ、京都がやりそうなことや」と、正直いうて思った。最近よく言われる「原子力ムラ」やないけど、隠然と「京都ムラ」っちゅーもんがあって、「京都ムラ」の利権を脅かすものに対しては、したたかに激しく抵抗する。「ウチ」と「ヨソ」を厳然と見分けて、ウチを守るために、ヨソさんに対する合理性に基づかない(だって、薪は岩手の陸前高田ので、放射能検査してもシロやてわかった上やったんやで!)嫌悪感というのを色々な面で隠し持ってるのを感じるし、ウチの「空気」ばっかり読んでるし、ちょっとでもヨソさんがウチに入ろうとするならば、まずは「空気」を読むことを強要するっちゅーところがあるように思う。そういうので「伝統」を守ってきた、という自負があるから、話がややこしいねんけど。

でまた、それが同時に「反権力の文化」みたいなもんとして作用するのも京都のおもろいとこで、京大の原子炉実験所に小出先生みたいな人がいてられるのも、そういう「京都の反権力文化」の賜物とも言えるわけ。小出先生自身もそんなことインタビューで答えたはったで。たぶん「送り火で陸前高田の薪つこたらどーですか?」と持ちかけられてその気になった保存会のおっちゃんらの中にも、そういう反骨な人がおったんちゃうかなぁ。「国もモタモタしてるばっかりでアカンし、ウチの五山の送り火でしっかり供養さしてもらいますわ!」と。そやけど、意見調整の段階で、反対意見が激しくぶつかり合ったり明確なビジョンに基づく合理的な議論がきっちりなされた結果・・・ということではなく、京都的な悪習「空気の擦り合わせ」によって、結局断念してしもたんちゃうか、と。(ほんでもその後の全国からのクレームのおかげで、また空気が変わってんけどね・・・)

つまり、こういう風に京都の要素って、めちゃくちゃカッコええもんと、めちゃくちゃカッコ悪いもんが、激しく絡まりあってて、今回の事件はまさに、そういう京都の複雑な面が、混乱しながら絡まりまくってもっともザンネンな結果になってもた、という気がしてならんねん。そういう意味でも、これまた「隠されていた問題点」がお陰さまであらわになったことで、今後の京都人の生き方を考える上での大きな材料にしていかんとアカン!と思う。いままでみたいに、単純に「ウチの空気」だけ読んでたらええ時代は絶対終わったんやから。「ウチの空気」ではなくて、「真実」が顕わになってきたんやから、3.11以前のようにはもうのらりくらりでけへんのよ、向き合わんと!・・・と、ほんまに自戒を込めて、思う。


ほんでやっぱり、京都在住の京都人は、関電に対する脱原発運動をもっとガンガンにやってほしいわぁ。拝観税を突っぱねたり、鴨川に架けようとしてたフランス橋を突っぱねたりしたときみたいに、関電の原発もしたたかに激しく突っぱねていったらカッコええと思うねんけど。それで、京都らしい小規模分散型の自然エネルギーの在り方とかを議論する「空気」が街中に溢れてるとか。ちょっとカフェに入ったら、学生らがあっちこっちでそんな会話してるとか。むちゃかっこええやん、そんな京都。もう、空気ばっかり気にして偏見と差別にがんじがらめになるような京都の側面からは卒業すべきやでぇ!

・・・というわけで、私はこのお盆は京都にちょっくら帰ってきます。そんで、五山の送り火も旧友とたっぷり観賞してくる予定!感慨深いやろなぁ、今年はひときわ!!

供養、そして希望を。光に根付いた本当の希望が全ての人の上にもたらされますように。

真剣に祈ってきます!(^^)








posted by 笹野みちる at 22:26| 東京 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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