2011年03月21日

光の碇

あれから、10日が経つ。

テレビとしては使うまい、と思っていたテレビ機能付きパソコンやったけど、迅速な情報入手も必要やと判断して、一昨年の暮れに購入してから初めて、その機能を使うことにした。

少年とおばあちゃんが瓦礫の下から10日ぶりに救助されてる生中継を見て、ヘリコプターが上がる瞬間に涙が出てきた。でも、飛び立っていくヘリの背後に映る町の風景は、あまりにも、あまりにも悲惨やった。被災地の様子や、被曝に関するニュースがどんどんと具体的に伝わり始め、胸が張り裂けそうな時間が続く。

東京にもじわじわと押し寄せてくる放射能の恐怖がだんだんリアルに感じられ、徐々に揺れが強くなるタイプの余震があるたびに、思わず玄関に走ってドアの鍵を開けたりする。あの日からずっと揺れが続くせいか、なんとなく、眩暈なのかホンマの地震なのかがときどきわからんようになる。コンサートも中止、花見も中止のお知らせが相次ぎ、デパートもスーパーも休業したり営業時間が短くなっている。

・・・あかん!こんなんに飲み込まれたらあかん!!と、突然思って、地震の前に通販で購入し、聴かずに放置されていたCDを、日の光が明るいうちに聴いた。ジョージ・セル指揮/クリーヴランド管弦楽団の1970年録音・ドヴォルザーク、交響曲第8番。

・・・こんなに音楽が魂に染み渡ったことはかつてなかったわ。涙と鼻水が溢れて、えらいことになってしもた。

ドヴォルザークの8番は、すでにケルテス/ロンドン交響楽団ので聴きなれてた曲やったけど、このセル盤の美しさはものすごかった。なんで早く聴かへんかってんやろ、と思ったけど、やっぱり、全然音楽を聴く気にならんかったのよね。息を詰める緊張が続いてて、それが今、久しぶりに浴びるように音を聴いたもんやから、暗い洞窟からいきなり外へ出たみたいになった。

目が眩むような光が降り注ぎ、森がさざめき、喜びに包まれて歌いながら大空を飛びまわる鳥たちの様子がありありと浮かぶ。故郷の美しい自然を愛し、祖国のこれまでの苦難を深く偲びつつ、全てを包み込む気高くあたたかいメロディーの奔流。19世紀のボヘミアの様子は全然知らんけど、ドヴォルザークの祖国への愛と自然賛歌、神への信仰が痛いほど伝わってきた。

それで思ったことは、唐突かもしれんけど、やっぱり「光」に繋がってなあかん、ということ。しっかりと「光の碇(いかり)」を心の底に下ろして、絶対に離れんようにせなあかんねん。そして、深く広大な光の海底にしっかり繋がってる感覚。そうせな、心は簡単に漂流し、「恐れ」という闇の波間で転覆させられてしまう。

ドヴォルザークの祖国愛は、ものすごい「自然への愛」と「神への感謝」とひとつやから美しいんやと思う。間違っても、己の力を誇示せんがための祖国愛なんかとはちがう。恐怖に怯える祖国防衛のナショナリズムなんかとは全く違う。ドヴォルザークの美しい音の流れの中には、いつも素朴で謙虚なもんを感じる。すごく、光に繋がってる感じがする。「愛」と「謙虚」と「光」はひとつやわ、と、ドヴォルザークを聴いているとそんな意味不明なことですら、完全に納得できたような気になる。

それで、すっかり生まれ変わったような気になって、またテレビを見始めた。そしたら、今、「被災に負けずにがんばろう!」という文脈の上で、巷の言説で溢れてきている「日本を愛する」という言葉が、私の中ではっきりイメージできた。「日本」を愛するというのは、今まで傷つけ、裏切ってきた日本を・・・つまり、今まで傷つけ、裏切ってきた他ならぬ「自分」を認め、赦し、癒し、愛する、ということなんやって。

まず、思いっきり泣きたい。それで、「ごめんなさい」って自分に言おう。色々な部分が自分にはあるのに、都合の悪い部分やイヤな部分を切り捨てて、フタをして、見ないふりをしてきた。怖くて虚勢を張って嘘ばっかりついてきた。そういう自分に、これを機にホンマに「ごめんなさい」をして、バラバラになった自分を全部抱きしめるとこから始めよう。

原発のことも、地震のことも、津波のことも、そして以前からズタズタにしてきた日本の風土に対しても「ごめんなさい」から始めて、全部を抱きとめるんや。それで、ドヴォルザークが祖国ボヘミアの自然をあんな風に愛したように、私も日本の自然の美しさを、もう一回本気で愛して感謝して、どうか心を入れ替えますから戻ってきてくださいと懇願するように泣いて、去ってしまった愛する人が再び完全に立ち現れてくれますようにと、心の底から改心してありありと目に浮かべるんや。

そういう気持ちで、これからは生きていきたいと思った。もう、3・11以前の時間には絶対に戻れへん。復興後のヴィジョンも、原発反対運動も、それ以前とは全然違う、溢れるような愛と光に基づいてやっていかなあかんと思う。恐怖と怒りは認めて手放すんや。みんなつながってる。原発も地震も津波も、日本も日本政府も地球も全部私や。避難所の生活を余儀なくされている人も、危険と隣りあわせで作業をしている人も、大事な人を失ってしまった人も、無念にも亡くなってしまった人も、全て、みんな私や。全てを抱きしめて、激しい痛みを恐れずに感じて、そして癒して、心の底から「ひとつ」であったことを確信して、真剣に、祈るんや。

それを忘れんようにしよう。もし忘れそうになったとしても、今度はすぐに気付いて、赦して、またすぐにひとつであることを思い出し、祈り、そして具体的に導かれれば躊躇せずに、行動に移ろう。

怒りじゃなく、光の碇をしっかり心に下ろすんや。



posted by 笹野みちる at 05:48| 東京 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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